いらっしゃいませ。

こんにちは。

当ブログ管理人、千葉県八千代市で「個別学習ヴァージャー」という塾をしているうかる~る・岡本と申します。 ここでのブログはまだ始めてから短いですが、少しずつ充実させていきたいなと思っております。学習塾の塾長をしておりますが、教育の話はほどほど(?)で、日々のうたかたをお気楽かつ皮肉交じり?に綴っております。一部の個人情報を除いては「ほぼノンフィクション」になっております。ブログがリアルへの架け橋になればいいなと思っております。どうぞよろしく。 For Non Japanese readers. Thank you very much for visiting my weblog.I am very happy to be visited. If you have time,please leave your comment.(^^) Ciao!

どうぞ、ごゆっくり。

2009/05/28

Chapter・1:プロローグのようなもの

 

 エレベーターが同じ所の行ったり来たりを繰り返す、あるいはエスカレーターはどこが始まりでどこが終わりであるのか判然としないように、私の生業としている学習塾の一年もいつから始まりいつ終わるのかが、落花生の殻を剥くようにはいかない。部分の集合が必ずしも全体にならないのと同様に、私の日々の欠片を一粒残らず掻き集めてみたところで、思っている通りに纏まらないことは試行してみるまでもなく、ほんの僅かな思考を以て足るのであろうが、敢えて記憶を記録に置き換えることによって生じるであろう今までに気がつかなかった、いや、気がつきたくはなかった気づいておくべきことが見えてくるのかも知れない。そのような儚げで、おぼろ豆腐にも似た食感とでも言うべき白昼夢を、これから現実と言う名の鍋で煮込んでいく。


 私の一日はイワン・デニソビッチのそれとは異なり、既視感の畳鰯とでも形容するに相応しい一見何の変哲もギミックもないものである。給与所得者が毎日同じ時間に同じ電車に揺られて、時間という貨幣を以て貨幣というトランプのジョーカーと交換するために、自己を部分的に切り売りするという側面はもちろんある。僅かに給与所得者のそれと異なる点は、自由裁量にまかされる部分の割合が多いという位である。首に着いている鎖が緩めで目に見えない、そうイメージしていただければ良いだろうか。鎖が首に緩く目に見えないことでかえって、時には自分の首がより一層厳しく絞め付けられていると感じることは少なくないのだが、ネクタイという権威の象徴すら何年も身に纏ってはいない身としては、見えない鎖くらいは我慢しなければならないのかも知れないと思い、愛犬の気持を忖度しつつ甘受しているのである。
さて、三流の塾講師を体現するのはこのあたりでお開きにして、鍋の仕込みを始めていこう。

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